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喜波貞子(Teiko Kiwa) 直筆サイン入り台紙付き「艶消し」白黒写真(大きさは約35cmX24cm) 手の込んだ台紙付き写真表裏共に喜波貞子の直筆サイン!詳細は不明ながら、共演した「テノール歌手宛」に書かれています。
注)図1では、全体がスキャン出来ず、「台紙の最上部」は見えていません。 図2写真左下に、「喜波貞子」日本語漢字サイン
図3右下に、イタリア語でサイン
A Tamuele Teilmenmio bravo e simpatico Pinkarton
Cordialmente
Teiko Kiwa
Palermo 24-4-1925
「共演したテノール歌手(綴り不詳)」Tamuele Teilmenへ私の素晴らしく、素敵なピンカートン心を込めて喜波貞子パレルモにて 1925年4月24日
図5,6台紙裏面中央に
" Madame Butterfly "
Teatro Massimo
Palermo 24/4/1925
" 蝶々夫人 ”マッシモ劇場パレルモにて 1925年4月24日
注)マッシモ劇場は、1897年開場、シチリア島北西部に位置する郡都パレルモにあるオペラ劇場!
喜波 貞子(きわ ていこ)1902年(明治35年)11月20日 - 1983年(昭和58年)5月29日)日本生まれの声楽家、オランダ国籍のソプラノオペラ歌手
1920年、17歳で、日本から渡欧し、ミラノスカラ座の声楽教授ヴァンツオに師事
1922年、リスボンのサン・カルルシュ国立劇場でプッチーニ作曲『蝶々夫人』でデビュー!欧州各地で公演した!
喜波貞子の衣装は、母が送った皇室御下賜品等、全て一級品の日本製和服・小物を調達 ! 舞台で映える柄の大きなものが選ばれ、精巧で美しいものであった。象徴的なものでは、「私の残していくものの中で一番大切なもの、私の魂」と、愛弟子に語った「和傘」には、三越のシールが貼られていた。常に、日本人としてふるまい、その態度は毅然とし、心配りも行き届いていたので、ヨーロッパ各地で評判であった。
1931年、700回公演、1938年、ヘルシンキで1000回公演を開き、その後、第二次世界大戦の惨禍で、活躍の場を制約されながら、1953年のベルギーでの最後の舞台まで、ほぼ2000回の『蝶々夫人』のプリマドンナを「日本人」を演じ切った。
喜波は、正当な「ベルカント」唱法の『声』をヨーロッパで絶賛されていたが、同時に、その『舞台演技』も、ほぼ同時代の関谷敏子、三浦環、原信子よりも、高く評価され、『オペラ歌手』であると共に『大女優』でもあった。イタリア歌曲や日本の歌も歌い、シューベルトやシューマンの歌曲なども歌った。1931年パリオペラ=コミック座での700回目の記念公演は、フランス語で歌って観客を驚かせるなど、当時、「第一級の国際人」であった。
戦後、1953年に引退後は、「後進の指導」にあたり、1954年から、フランス、ニースに住んだ。1973年、「日本に帰りたいが、知っている人はもういない」と語っていた。1983年5月29日、惜しくも、敗血症のため、パスツール病院で80年の生涯を閉じた。(ウイキペディア及び、参考図書:松永伍一 著「蝶は還らず」から)
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